林みのる(株式会社 童夢 代表取締役社長、株式会社 童夢カーボン・マジック 代表取締役会長 、日本自動車レース工業会 会長)は、2012年8月末日をもって、株式会社 童夢 代表取締役社長及び日本自動車レース工業会 会長の職から退任することをお知らせいたします。 なお、2012年9月1日より、株式会社 童夢の代表取締役社長には鮒子田 寛が就任し、日本自動車レース工業会の会長には 大岩 湛矣氏が就任します。 今後、林みのるは、株式会社 童夢に関しては、特別顧問として主にデザイン関係の管理/運営を担当しますが、会社の経営/運営については、その一切を鮒子田 寛に付託します。 日本自動車レース工業会に関しては、理事として在籍し、大岩会長の方針に従って出来る限りのお手伝いをします。
ごあいさつ 何で?というご質問もあろうかと思いますが、基本的には、もう日本のレース界において私に出来ることが何も無くなってしまったからです。 ここ10年くらい、特に日本自動車レース工業会を設立してからは、私はほとんどの時間やエネルギーを日本の自動車レースの発展振興の為に費やしてきましたし、かなりの費用も投入してきました。 それでも、レース界から返ってくる反応は枝葉末節な理由による反発ばかりで、今までも、何度も挫折感を味わったり諦めたり匙を投げたりしてきましたが、それは、その時々の力不足による敗退と言う感じでしたから、少し時を経ると、また、今なら何とかなるんじゃないかと新たなファイトが湧いてくるという繰り返しでした。 しかし、近年、さびれゆくF4の再興を目指してカーボン・モノコックを開発したり、新型のF4の発売を支援したりの振興策に多大なエネルギーと費用を投入しているのにかかわらず、レース界からの反応は難癖としか言いようのないような稚拙な反発ばかりでしたから、やたら、空しさだけが募るあほらしいボランティア活動になっていました。 また、最近のフォーミュラ・ニッポンの次期車選定においても、16年を経て、やっと国産レーシングカーが選択のテーブルに乗ったのはいいとしても、予定調和のように外国車の輸入に決まるプロセスを見ながら、この日本の現状を鑑みるに、な おかつ日本のレース資金を外国に流出させることに汲々とする人たちと1mmたりとも接点が無いことを確信しました。
思えば、何か全く違う世界でもがいていたような気分で、失礼しましたとしか言いようもありませんが、それでも、これで私がまだ40代だったら、日本の政治もレース界もまとめて改革してやろうくらいは思ったかも知れませんが、私ももう67歳、限りある時間と金はもっと有意義に遣いたいと思っています。
ただし、この日本自動車レース工業会(JMIA)という組織は、このレース界の中でも特例と言えるほど意欲的な運営が続いており、毎月一回の理事会においても、毎回、8名の理事がほぼ欠席することも無く出席して、毎回、長時間に亘って熱く意見を交わしあっているという珍しい組織です。 その話し合われる内容も、工業会への我田引水のような下世話な話ではなく、日本の自動車レースそのものを発展振興させない限り、私利私欲も我田引水もない、つまり、小さなパイの取り分け方より、もっと大きなパイを焼いてからたらふく食おうという発想が徹底されていますから、会議はいつも、かなりダイナミズムにあふれた内容となっています。 何よりも、この低迷を続ける日本の自動車レースを根本的に改革できる可能性をもった唯一の組織ですから、何が何でも、この最後の希望の光を絶やす訳にはいきません。
私はもう、日本のレース界に関しては、何も出来ることはありませんし、何よりも、最早、矢尽き刀折れて再起不能状態ですが、幸い、JMIAの理事諸氏は、私なんかよりもずっと忍耐と寛容をもって日本のレース界に対峙している方が多く、特に、大岩さんは、爆竹のような私とは違い、常に泰然たる姿勢で私に水をかける役目を担ってくれていました。 どんな形にせよ、日本の自動車レースはまだまだ続くでしょうから、これからも長い目で見守っていく必要がありますし、その点、穏健派の大岩さんは日本のレース界との相性も良く適任ですが、大岩さんは私より長老ですし、あまり長い目で見守り続けるほどの余裕も無いでしょう。
まあ、最後に一言、「自国のレースに使うレーシングカーくらい自国で開発しょうぜ!」
林みのる
しかし、長年に亘って観察してきただけに林さんの気持ちは理解できますし、もう翻意の可能性もなさそうですが、かと言って、今まで、会員および理事各位の熱心な努力によって積み上げてきた改革の兆しを、ここで絶やす訳にはいきませんので、仕方なくではありますが引き受けることにしました。
林さんが今まで日本のレース界に対して提言してきたことは極めて正しいと考えてサポートしてきたつもりの私としては、基本的な路線を変更するつもりはありませんが、自ずから手法はソフト化するでしょう。 何よりも、大所高所から日本のレース界を俯瞰するような視点から発信されてきた林さんの思いを大切にしながらも、現実のレース界との落差を調整しながら、日本の自動車レースの発展振興を唯一の目的として具体的な成果を求めていきたいと考えていますので、各位におかれましても、今後とも、より一層のご指導、ご鞭撻、ご支援をよろしくお願いします。
大岩 湛矣
1963年5月、第1回日本GPを観戦したことをきっかけに、これは自分にも出来そうと、22歳の時に、第2回日本GPにトヨタ・パブリカにて出場したのが始まり。 その後、トヨタ自販チームでセミワークスとして10年間乗車、その間に約30レースに参加したが、トムス設立時にドライバーとしてはリタイアした。
19歳で初就職、伊藤忠自動車株式会社 21歳で高島屋東京支店自動車販売部に入社、その後、カローラ高島屋に転籍。 1974年、トムスの設立に専務として参加。現在は代表取締役社長を務める。